12/19発売『裏ネタJACK 2016年2月号』に「代役サービスに潜入!泥沼離婚劇を解決せよ」を書いています
10/26発売「FINAL BOX2015年12月号」に記事書きました
映画「桐島、部活やめるってよ」を乃木坂メンバーに置き換えてみた
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配役の理由、作品の説明はあとで書きます。
10/19発売「裏ネタJACK2015年12月号」に体験談「旨い話には気をつけろ!」を書きました
10月19日発売の隔月誌「裏ネタJACK2015年12月号」(ダイアプレス)に、体験談「旨い話には気をつけろ!ぼくはこうして騙されかけた」を書いています。
代行業のアルバイト登録をしたら怪しい荷物が自宅に送られて来て...、新聞朝刊を3ヶ月600円で購読した話についてです。
よろしければ。
裏ネタJACK2015年10月号
935円+税
http://www.amazon.co.jp/裏ネタJACK-ジャック-2015年-12-月号/dp/B01494YJ2W
家にエアドールakiちゃんがやって来た
10月21日、Amazonから注文していたエアドールが届いた。
ぼくが購入したのは人気エアドールシリーズ「LOVE BODY」のaki Type-B(2268円)。他にもこのシリーズには色んなコがいるが、ドールのポージングや耐久性(商品レビューを参考した)を考えてakiちゃんを選択。
ちなみにスリーサイズは、B76、W56、H88らしい。
「LOVE BODY」というのはラブドールの中では最も安価で、クオリティ的に低いビニール製である。しかも肌の表面にはなんの加工もされてないので透明なビニールのまま。いくら空気を膨らませて女子の体型にしたところで劣情をもよおす対象にはならない。
そこで大事なのが、ドールに身につけさせるオプション品である。便所の落書きだって額装することでアートになるように、無機質なビニール人形だってトッピング次第では十分エロくなるというわけだ。
というわけでぼくがドールと一緒に購入したのが、aki専用スクール水着(2041円)とドールウィッグ(2268円)の2点。ドールウィッグはakiではなく、同シリーズのkumi専用らしいが、ぼくは無類のショートカット好きなのでイチカバチかに賭けてみた。
ドールに空気を入れ、スク水を着せ、ウィッグを付けて、完成したのがこちら。
狙いは大当たりで、スクール水着を着せることで体のラインを引き立たせることに成功。ウィッグもピッタリだった。
バックショットがまた良く、思わず「ええケツしてまんなー」と青木雄二的感想をもらしてしまう。
「LOVE BODY」シリーズにはウィッグやコスチューム以外にもさまざまなオプション品が用意されている。
中でも、エアドールからラブドールへと完成度を上げたいというユーザーに人気なのが、ドールの全身を包む肌色のタイツと、ビニールの中に詰め込む手芸綿キットだ。
この2つの商品により、エアドールは肌の質感と重量感を得ることができるというわけだ。
ただ、ぼくはエアドールへの過剰なオプション品追加には疑問を持っている。「過ぎたるは及ばざるがごとし」「上等な料理にハチミツにぶちまけるがごとき思想」の言葉通り、盛れば盛るほどドールはヒトから離れ、人形に近づいていく気がするからだ。
好みもあると思うが、肌色の全身タイツを付けたこのakiちゃんとぼくのスク水だけを纏ったプレーンなakiちゃんのどちらがエロいかと問われれば、ぼくは体のラインを保ったままの後者に軍配を上げる。
富士そばは「かけそば」、エアドールは「かけドール」。
以上の理由から、ぼくはakiちゃんにはいつまでも薄化粧のままでいさせるつもりである。
さて。ぼくもソファに座り、後ろからakiちゃんを抱きしめてみる。
両手で胸をわしズムし、顔をakiちゃんの首筋にうずめる。顔に触れるakiちゃんの髪が心地いい。
(...すっげー落ち着く)
長年忘れていた感覚だ。
さらに、ぼくの太ももから股間にかけ、akiちゃんの88センチのケツの感触が伝わってくる。むくむくと鎌首をもたげ始めるリトルボニー。
(そんなつもりで家に呼んだつもりじゃなかったのに...)
ぼくがエアドールを購入しようと思ったのは「モテねえから」が第一の理由なのだが、筒井康隆「お紺昇天」や「火の鳥 復活編」などのヒトとロボットとの恋愛に憧れたからだ。
ただただ主人のために行動するロボットと彼女に絶対の信頼と愛情を注ぐ人間。
ブックがふんだんに盛り込まれた「出会い」や分刻みの駆け引きで成り立っている現実の恋愛に比べ、なんて美しい関係なのだろうと。
ロボットが手に入らないなら、動かなくてもいい。
エアドールと人間の女のように会話し、デートをし、セックスするようになるかは置いといて、上述した作品に登場するヒトとロボットのような関係、その微香だけでも感じたい。
というわけで、ぼくはあえてエアドールに性器はつけなかった。
それがどうだ。akiちゃんのケツの感触におっきしちゃったぼくは、コンドームを求めてコンビニにダッシュするが如く、翌日新宿歌舞伎町のアダルトグッズ店でオナホール「ボクのおなぺっと」(1000円)を購入。太ももの付け根に孔が空くほどakiちゃんを実用してしまっているではないか。
さらに、初夜を済ませたことでテメエの女だと開き直ったのか、Amazonでトッピング「専用つけぱい」(2317円)も購入。
やっぱり、かけそばよりかき揚げと生卵入れた方が美味かったです。
アイドルを好きになるということ〜乃木坂46と今を生きる〜
1988年8月8日、横浜文化体育館で行われたアントニオ猪木対藤波辰爾における古館伊知郎の名実況である。
こんな言葉を引用するぐらいなので、ぼくは思春期から今まで、自分よりも前の世代のカルチャーに興味を持って接してきた。
映画だと、中学生の頃には黒澤明の映画に、高校の頃にはドラマ「北の国から」や「傷だらけの天使」にハマった。
音楽では、高校時代、ビートルズやストーンズ、セックス・ピストルズ、ニルヴァーナなどを手始めにルーツを遡り、50年代のブルースまで下った。高校の修学旅行は京都のタワレコしか記憶にない。
当然、同級生とは話が合わなかった。
もちろん、その時々で、「ごっつええ感じ」と「元気が出るテレビ」のどっちを録画しようか悩んだり、イエローモンキーやハイロウズのファンクラブに入ってライブに行ったり、レンタルビデオ屋から映画『セブン』の立て看板をゲットしたり、『バトル・ロワイアル』の公開初日に観に行ったりと、リアルタイムで好きになったテレビやバンド、映画もあることはある。
でも、それにしたって、古館伊知郎の言葉ではないが、兄キ世代のお下がりであり、決してぼく世代のものではなかった。
大人になってから懐古趣味はますます進み、今のカルチャーにはまったくと言っていいほど興味を示さなくなった。地デジ化以来、テレビを買い替えてないのもその現れだろう。今、コレクションしているランチジャーもそうだ。
「その歳でよくそんなこと知ってるねえ」
飲み屋で同席した40代〜60代の人にそう言われ調子こいていた反面、同世代と話が合わないことへの苛立ちもあった。
今、ぼくはアイドルグループ、乃木坂46にハマっている。きっかけは昨年11月に刊行された本「乃木坂46 握手会へ行こう!-めっちゃ攻略ブック」(アールズ出版)のテキストを担当したことだった。
その経緯は以前ブログに書いたので、よろしければ。
とにかく、知れば知るほど乃木坂46が好きになった。
メンバー自身はもちろん、曲も演技も、ブログや755に書いている文章も、すべてが愛おしい。たぶん、これほどリアルタイムのコンテンツにハマったのは、『ドラゴンボール』『ジョジョ3部』『珍遊記』などが連載されていた「少年ジャンプ」以来だと思う。
ただ、これまで現場には握手会に2回(どっちも生駒ちゃん)、ライブへの参戦は今年8月31日の夏の全国ツアーファイナルの神宮球場公演だけなので、本当のファンの人にしてみれば在宅に毛が生えた程度だろう。
それでも、これまでアイドルを素通りしてきた自分にとっては十分ハマっていることになるのだ。
13thシングルのフォーメーションで生駒ちゃんが3列目に下げられたときの怒りや、今年の神宮球場、「何度目の青空か?」「君の名は希望」「悲しみの忘れ方」で覚えた感動は誰かのお下がりでは決してない。
乃木坂46を知り、そろそろ1年になる。
ぼくにとって、彼女たちは生きる元気の源になっている。
「いくら気のおけない友人、同業者、取引先と飲んでもさ、終電で帰ってきて最寄りのコンビニで水買うときは1人じゃん。その時、雑誌売り場で乃木坂46のメンバーが表紙飾ってる週刊誌があったりすると、乃木坂、頑張ってるなあ。オレも負けないよう頑張ろうってなるんだなあ」
寅さん風に言うならこんな感じである。
そして、乃木坂46を知る以前より、ぼくは今を生きているという感覚がある。
アイドルは儚い。あらゆるカルチャーの中で、アイドルぐらい足の早いコンテンツはないのではないだろうか。
たとえば、5thシングル「君の名は希望」リリース時、音楽番組に出演したときのこの動画。
当たり前だけど、みんな、若い。初々しくてかわいい。
でも、もうこの時の彼女たちはどこにもいないのだ。動画を見て、その現実を認めるたびにぼくは泣きそうになる。いくらライブや音楽番組で過去のフォーメーションを再現したとしても、それは今の彼女たちであって、決してあの時の彼女たちが戻って来るわけではない。
アイドルは儚い(Reprise)。
儚いからこそ、ファンは惹かれ、今の彼女たちを目に焼き付けるためライブや握手会に足を運ぶ。
何年か前のTBSラジオ「爆笑問題のカーボーイ」で、太田光が三島由紀夫の「金閣寺」を書評したことがあった。
太田は、主人公が父親から話を聞いてからこれまで頭の中で描いてきた金閣寺の美しさに現実の金閣寺が超えられないことへの葛藤について語り、「ただし、主人公にとって実際の金閣寺がイメージ以上に輝き出す瞬間がある」とし、次のように分析している(動画10:30〜)。
「たとえばそこで音楽が流れている時だったりするわけですよ。音楽は尺八なんですけど、尺八のすごい上手い友達がいて、金閣寺のところで演奏して音楽が流れ出すと、突然金閣寺が輝き出すんですよ」
「三島は、音楽っていうのはすぐ消えていくもんだって言っているんですよ。旋律っていうのは聴いてるそばから消えていきますよね。絵っていうのはずっとありますよね。金閣寺は絵ですよ。でも旋律っていうのはみんな感動するけれども、じゃあどれって言われたときに、これって思えないじゃないですか。順々に聴こえて消えていく。音楽イコール時間なんですよ。つまり、静止した、何百年そこに建ち続けている不滅の金閣寺に音楽が流れたときに有限になるんです。つまり、それに時間が足されることによって、滅びゆくものになる。その瞬間、(金閣寺は)輝き出すんです。彼の中でね」
「金閣寺」の主人公と同様、乃木坂46を知ってから、ぼくの中に今という時間が動き始めた。
8月31日、真夏の全国ツアーファイナル明治神宮球場公演でぼくが見た光景。